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アレホ・カルペンティエール 失われた足跡


 ラテンアメリカ文学を語るときに外せない作品の一つとしてよく語られる作品。しかし集英社版が廃版になってからの近年は全く手に入らず、半ば読むのを諦めかけていたのだが、この春岩波文庫から登場したので喜び勇んで購入。

 ところが、読み始めてみるとこれが非常に読みにくい。なかなか読み進められず、結局読み終わるのに2週間以上もかかってしまった。
 ラテンアメリカ文学を語る上でよく「マジック・リアリズム」というキーワードが使われる。現実的な描写と非現実的な描写がシームレスに繋がった表現のことで、確かにガルシア・マルケスの作品を語る上では絶対に外せない技法だと言える。
 だが、文学史を考えると、プルースト以降『意識の流れ』が文学作品に盛り込まれるのが当たり前になってきて、作品中の描写は登場人物の意識に沿って現在と過去を行き来するようになった。簡単に言えば作品中の時間的描写がより自由になったわけだ。
 そうなると次に来るのは、「心の中の風景と実際の風景が自由に行き来する表現」になることは想像に難くない。「マジック・リアリズム」は文学の適正進化なのである。なので現在では世界中の作家がこの技法を自作に持ち込んでいる。
 よく言われるのはこの「失われた足跡」はそんな「マジック・リアリズム」の技法が歴史上かなり早い時期に大胆に持ち込まれた作品だ、ということ。

 で、読んでみると、正直言って「う~ん」という感想しか持てなかった。
 音楽家である主人公が、貴重な民族楽器を探して未開の地に入り、そこで時間を遡るような旅をして理想郷のような村にたどり着く、というプロットはいい。そこで起こるさまざまな事件も、のちのガルシア・マルケスの「マジック・リアリズム」を思わせるようなものもある。しかし正直言って今の目からすれば「マジック・リアリズム」が売りになるような作品ではない。
 最後に都会に戻ってスキャンダルに巻き込まれ、再訪したジャングルで理想郷を見失うというストーリーがありきたりで下世話。主人公がインテリで俗物なのも作品世界から浮いている。逆にそこから「支配する者の目で見た未開地」の視点で作品世界を広げることも可能だったのではないかとも思うのだが、そうはなっていない。主人公は常に受身で、自分からは何もしない。旅に同伴させた愛人を、途中でその俗物ぶりに嫌気がさして帰すが、自分も彼女と五十歩百歩であることには気づきもしない。なので底の浅い未開地ユートピア礼賛の作品に見えてしまう。
 原文がそうなのか、翻訳のせいかはわからないが文章そのものも、句読点と句読点までの間が長い(かなりマメに読点は打ってある)文章が多く冗漫な印象がある。
 単純に小説としても内容に比して長すぎる。2/3くらいの長さだったら名作とは言わないまでも傑作だとは言えたのだが。

 この作品が発表されたのが1953年。55年には「ペドロ・パラモ」が、そして58年にはあの「百年の孤独」が登場している。これら名作の登場ですっかり割を食ったか。
 長年読みたかった作品でこれだけがっかりしたのは久しぶり。
.07 2014 中・南米文学 comment0 trackback(-)

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