スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
.-- -- スポンサー広告 comment(-) trackback(-)

アーサー・C・クラーク 幼年期の終わり


 アーサー・C・クラークが1953年に発表したSFの古典的名作。
この光文社古典新訳文庫版では、冒頭部分が後年の社会状況にあわせて書き換えられたヴァージョンが訳されている。

 21世紀初頭のある日、地球の各都市の上空に無数の巨大な空飛ぶ円盤が出現、宇宙人たちはその圧倒的な力で、全く戦うことなく人類を支配してしまう。オーヴァーロードと呼ばれる彼らは人類に新技術を与え、人類は豊かになり戦争も差別もなくなった。だがオーヴァーロードは全く人類の前に姿を見せない。国連総長ストルムグレンはオーヴァーロードの地球総督カレランと人類の橋渡し役だったのだが、引退を前にしてなんとかカレランの姿を見てみたいと思うようになる。ストルムグレンの願いはかなわなかったが、カレランは50年後に姿を見せることを約束する。

 クラークの作品というと、何といってもキューブリックによる映画が有名な「2001年宇宙の旅」がまっさきに思い浮かぶのだが、これもあの作品によく似たひんやりした空気が漂う作品で、内容的にも『超知性が登場して人類と関わるとき』の問題を扱っているという点で共通したテーマを持ったものだ。違うのは『2001年』が外宇宙からやってきた超知性が人類の進化をサポートしながら直接人類とは関わらずにいるのに対して、『幼年期』では超知性へ変貌するのは人類自身であり、オーヴァーロードはそれをサポートするための存在に過ぎないという点だ。

 人類が超知性へと変貌する作品というと、個人的にはストルガツキーの「みにくい白鳥」や「波が風を消す」といった作品が思い浮かぶのだが、これはそれの原型といってもいいだろう。
 そういう先駆的な作品であるためか、作品自体は結構荒削りで、オーヴァーロード支配下の『幸福な時代』の描写が抽象的すぎて物足りなかったり、子供たちが個性を持たない超知性へ一斉に発展してしまうというのはちょっと強引だが、計り知れない超知性の不気味さといい全体ではSFらしいクールさ・怖さを散りばめた、世評通りの傑作といってもいいだろう。ただそれは「SF」という範疇での事、という注釈付きになるが。

 例えば現実にこのような状況が訪れたとしよう。10歳以下の子供たちがみな超知性へ変貌し、コミニュケーションできなくなった。それは大変な不幸だ。しかし、それで取り残されてしまったからといって残された人々が自殺を選ぶとかあり得るだろうか。ありえない。それでもまだもう少し年長の子供たちや若い世代の人々が居るのだし、彼らの残りの人生のための努力を放り出すほど人は弱いだろうか。もちろん、新たに生まれる子供たちはもはや人類ではないわけで、人類全体という意味では未来はないのだが、それでもひとりひとりの未来のために生きようとするのが人なのではないだろうか。この作品の終盤のジャンがそうだったように。
 『2001年』でもそうだったのだが、この人の作品はどうも人間の比重が低いと感じるのは私だけだろうか。
.29 2011 SF comment0 trackback(-)

comment

post comment

  • URL
  • comment

  • password
  • secret
  • 管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

piaa

  • Author:piaa
  • Livedoorへ移転しましたので、そちらでお願いします。

    こちらのブログへのコメントはLivedoorに転載しますが、定期的にチェックしないので相当遅くなることもあります。

ブログナビ

P&M_Blog
 トップページ
  ├ 月別アーカイブ
  |  └ --年--月
  ├ カテゴリー
  |  └ スポンサー広告
  └ スポンサーサイト
P&M_Blog
 トップページ
  ├ 月別アーカイブ
  |  └ 2011年12月
  ├ カテゴリー
  |  └ SF
  └ アーサー・C・クラーク 幼年期の終わり

カレンダー

06 | 2017/07 | 08
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31 - - - - -

月別アーカイブ

カウンター

ブログ内検索

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。