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ガルシア・マルケスの新刊 その2

新潮社の10月新刊の記事に発見!
「コレラの時代の愛」ガブリエル・ガルシア=マルケス 木村榮一・訳
ついに刊行!傑作の呼び声高い作品で期待大です。
ちなみに「わが悲しき娼婦たちの思い出」のほうは9月29日発売、1890円だそうです。
この秋はガルシア・マルケス三昧!!
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.31 2006 本についての雑記 comment0 trackback0

夏のお昼寝 その2

前回の記事と同一猫物の別テイクです。



そういえば久しぶりにねこ写真専用HPpiaaののらねこカタログを更新しましたのでお暇な方はどうぞ!
.30 2006 ねこ comment0 trackback0

機動戦士ZガンダムIII 星の鼓動は愛


 以下、めちゃくちゃにけなしますのでご注意ください。

 製作者が何を思ってこの映画を作ったのかよくわからないが、これだけは言える。失敗作はリメイクしてもやっぱり失敗作なのだ。
 なぜか製作者はあの散々な出来だったTVシリーズによほどの愛着でもあったのだろう。その愛着が正しい判断力を失わせたのか。修正すべきところを全く修正せず、カットしてはならないエピソードをいくつかカットしてしまっている。

 特にTVシリーズの後半のヤマであったはずのエピソード、キリマンジャロでのフォウとの再会と彼女の死は絶対に外してはならなかった。結局映画のカミーユはフォウが死んだことを認知しないままである。これは作劇上の致命的な失敗である。
 ラストではTVシリーズでは気がふれてしまうカミーユは無事なのだが、ファと抱き合い「ファは幻覚でも精神だけの存在でもない…」と言う(ここは「ガンダムF91」のラストと酷似している)が、そんなセリフを言わせる前に、「幻覚だか精神だけの存在」などが出現しないシナリオにすべきなのだ。そんなのが次から次に(それまで画面にほとんど出てこなかったロザミアまで)出てきて、それに触発されたかのように異常にパワーアップするZガンダム。なんでこんなくだらない展開をそのままにするのか?

 声優の交代も首を傾げる。サラの声優がまた変更になっているのだ。前作のレビューで私は池脇千鶴のサラを絶賛したが、ファンの間ではなぜか酷評されていたらしい。酷評を受けたから降板させるような監督ではないし、よほど何かあったのかと勘ぐってしまう。池脇千鶴でなくなったサラはシナリオのまずさもあいまって無表情な、なんだかわけのわからんキャラに成り下がっていた。だいたいサラとカツ、何回会ったんだ?それであんなに感情移入できるか?

 そのほかもずっとこんな調子。3作を通じて、ダイジェスト映画に過ぎないつまらない映画だった。つぎはぎだらけの絵も最悪。絵もストーリーも全部作り直すべきだった。おまけにあのGacktのヘンな歌!「水の星に愛を込めて」の方が2000倍くらいよかった。しかも物語の終わり方も中途半端。まだ続き作る気か?と思ってしまう。

 ブライト艦長役の鈴置洋孝さんが先日亡くなってしまって、図らずもこの作品が遺作となってしまった。こんな作品が遺作では鈴置氏も浮かばれない。
.29 2006 アニメ comment1 trackback0

川端康成 眠れる美女


 来月発売予定のガルシア・マルケス「わが悲しき娼婦たちの思い出」がこの作品にインスピレーションを受けて書かれた、と聞いては、ガルシア・マルケスファンとしてはやっぱり読んでおこうかなと思わずにはおれない。と言うわけで手にしたわが国が生んだノーベル賞作家によるこの作品。

 その宿は一見普通の民家に見えるが、そこでは薬を飲んで昏々と眠る全裸の少女と添い寝できるという、老人達に人気のスポットなのだった。もちろんやっていることは限りなく違法に近いので、主人公の江口も友人からの紹介で興味本位でやってくる。少女はただ昏々と眠っているだけだ。その眠る少女を見て、触れながら、江口はこれまでの人生でかかわりのあった女達のことをぼんやりと思い出す…

 うーむ。変態だ。こうやってプロットを抽出してみるとマジヤバイ変態小説だ。しかしまあ実際に読んでみるとやっぱり変態だ。耽美小説、という言い方もあるが「耽美」と「変態」はさして意味は違わないような気がする。ただし変態ながらその格調の高さ、物語の運び方などはさすがノーベル賞作家。全くアクションのない小説を一気に読ませる筆力はやはりただ者ではない。
 このノーベル賞作家・川端の異常で耽美な世界をやはりノーベル賞作家のガルシア・マルケスはどんな風に料理して我々の前に供してくれるのだろうか。期待が深まる。

 この本には別に「片腕」「散りぬるを」の2編が収められていて、どちらも川端の異常で耽美な世界が楽しめるが、特に「片腕」は秀逸。最初の1ページ読んだら「ええっ」と驚くことうけあい。
 キレイな古典的な小説を読みたい人は読んじゃダメ。阿部公房が好きな方などにお奨め。もちろん阿部公房などより文学的価値は数段上だ。
.28 2006 日本文学 comment7 trackback0

さよなら第9惑星


 先ほど国際天文学連合(IAU)の総会で採決が行われ、冥王星を惑星から外す最終案を賛成多数で採択した。これにより、太陽系の惑星数は現在の9個から8個となった。(以上毎日新聞ニュースより)
 ここまでの紆余曲折については報道の通りなのでいまさら繰り返さないが、近年大型カイパーベルト天体が相次いで発見され、さらに昨年発見された冥王星よりも大きなカイパーベルト天体「第10惑星(ゼナ)」の存在が引き金となって冥王星の惑星としての地位が見直されることになったのは間違いないだろう。

 8月16日に惑星の数を12に増やすという定義案が発表されたときに私は「賛成できない」と書いた。多くの科学者も同じ意見だったようでこの定義案は引きずりおろされ、今回決議された物になったようだ。

 最終的には「惑星」の構成要件として、
(1)自らの重力で球状となる
(2)太陽を周回する
(3)軌道周辺で、圧倒的に支配的な天体
の三つをクリアしたものが惑星、という事になった。冥王星はこの中の(3)に当てはまらないので惑星とは呼べない、と言うのが結論である。

 ちょっと寂しい気はするが、もちろん惑星だろうがそうでなかろうが、冥王星やゼナが神秘に満ちた魅力的な天体であることは変わらない。だからやっぱり「ニューホライズンズ」の冥王星探査が楽しみなことは変わらないのだ。
 でもこれからの子供たちにとって冥王星は縁遠い存在になるんだろうなあ…
.25 2006 宇宙 comment2 trackback0

レムの「大失敗(フィアスコ)」いよいよ発売!

 国書刊行会のレムコレクション第4弾「大失敗(フィアスコ)」がついに発売になるようです。9月28日発売、税込価格2,940円。

 これはタイタンでの救出活動中に仮死状態となり22世紀に蘇生したピルクスが主人公となってレムの原点であるファースト・コンタウトに再び挑む作品だそうです。うーん楽しみだ。しかし9月はガルシア・マルケスの「わが悲しき娼婦たちの思い出」も出るし、財布がきびしいかも…
.24 2006 本についての雑記 comment6 trackback0

ポール・ギャリコ 猫語の教科書


 見返しの著者紹介のところには猫の写真と「交通事故で母を亡くし、生後6週間で広い世の中に放り出される。一週間ほどの野外生活を経て、人間の家の乗っ取りを決意…」という文章。おいおい!著者は猫かい!!…というわけで本屋で見つけて即衝動買いした本。
 どうしたら人間の家を乗っ取り、人間を手なづけていい暮らしができるかをわかりやすく解説した、猫が書いた若い猫のための手引書である。
 猫にとっての人間の行動学の本であるのと同時に、猫の一見気まぐれな行動の裏にあるものをズバリ解き明かした著作でもある。かなり意地悪でひねくれた書き方をした本なので、猫嫌いな人はこれを読んで「やっぱ猫ってやな奴だ」と思うかもしれないが、まあ猫嫌いな人はその前にこの本を手に取らないだろう。猫飼っている人はこれを読んでちょっとショックを受ける人もいるかも。でも「うちの子は違うよね~」と思ってしまって猫の思う壺なのだ。ちょうど編者のポール・ギャリコ氏がそうだったように。
 猫を飼っているあなた。「声を出さないミャー」をやられたら、あなたは騙されているのだ。でもいいじゃん、気持ちよく騙されているんだから。

 家の乗っ取り方から、小うるさい旦那さんをどうやって手なづけるか、いつもおいしい食べ物をもらうにはどうしたらいいかといった、人間をうまくコントロールして生活を快適にする知恵から、子育てや別の家とかけもちする術まで、あらゆる事を解説してくれる。近所ののらねこたちにプレゼントしたい一冊である。
 猫だけじゃなくて、著者が言うように猫と女性は似た部分が多いので、人間の女性のなかにもこの本が役に立つ人は結構いるかも。若い男性もこの本を読んでおくと女性に騙された時に役に立つかも(?)しれない。

 主人公で著者のねこ(と考えられる)ツィツァはメス猫で、飼い主がカメラマンだったのでたくさんの写真が残っている。カヴァーのタイプライターに向かう猫の写真ももちろんツィツァで、この本の中にもたくさん彼女の写真が収録されている。巻末には大島弓子の書き下ろし漫画「わたしにとっての『猫語の教科書』」も収録。
.23 2006 ねこの本 comment0 trackback0

ラフカディオ・ハーン 怪談


 ラフカディオ・ハーンはアイルランド人で、後に日本に帰化して小泉八雲と名乗ったのは有名。この本はハーンが蒐集した日本の怪談を編纂したもので、原書は英語で書かれている。
 と言うことはこの作品は、日本の物語をアイルランド人が英語で読む人のために編纂したものをさらに日本語に翻訳したもの、である。
 もともと日本人は昔話を集成して本にするようなことがあまりなかった。昔話から落語まで、口伝で語り継がれてきた物ばかりである。だからこの「怪談」にも、ハーンが書き残さなければもう現代に残らなかったに違いない、他では聞いたことのない物語もある。

 冒頭には有名な「耳なし芳一」が置かれている。あまりにも有名な物語だが、ハーンの見事な筆力で素晴らしい作品になっている。目の見えない芳一が、亡霊と一緒に墓地へ行き、「平家物語」を聞かせるシーンでは視覚的な描写を一切行わない。それでいて音と、その音から芳一が受ける印象が描写され、読者の脳裏に芳一の脳裏に浮かんだものと非常に似たヴィジョンが浮かび上がるのである。

 「ろくろ首」では豪胆な元侍の僧侶が山奥でろくろ首を退治するのだが、このろくろ首はよく妖怪映画で見かける首が伸びる奴ではなく、首が胴体から離れて飛んでくるタイプである。
この分離型のろくろ首は中国の妖怪「飛頭蛮」(ひとうばん)に由来するものなのだそうだ。
 この作品では物語が終わったあと、後日譚の部分まで書かれている。かと思うと「鏡と鐘」のように後日譚かと思いきや、いきなり「それは言えない」と終わったり、さすがに日本に来る前からの怪談研究家ハーンの描写は見事である。
 他にのっぺらぼうが現れる「むじな」、遺体を貪り食う呪われた僧侶を描く「食人鬼」、柳の精を嫁に迎える「青柳ものがたり」などどれも興味深い小品が並ぶ名著である。

 私の読んだ岩波文庫版ではさらに巻末「虫の研究」が併録されている。これは虫を取っ掛かりにした文化論で、「蝶」や「蚊」をキーワードに日本文化に切り込む切り口はとても新鮮であった。もう一編「蟻」は日本文化と言うよりも文明の行き着く先を蟻の社会になぞらえたもので、ちょっとSF的・ディストピア的。これがとても面白かった。
.21 2006 英文学 comment0 trackback0

ガルシア・マルケスの新刊

新潮社のHPの新刊案内によると、ガルシア・マルケスの最新作『わが悲しき娼婦たちの思い出』が木村榮一氏の訳で9月の新刊として発売されるようです。
 これは川端康成の『眠れる美女』にインスピレーションを受けた作品と言うことです。川端の作品は「眠らされた若い女に添い寝していろんなことを妄想する老人」と言う異常なシチュエーションの、かなり変態チックな作品らしい。これをガルシア・マルケスはどう料理するのか? こう書くといかにもガルシア・マルケスらしい題材とも思えてきますが…
 今からわくわくしますねえ。
 発売までに元ネタの『眠れる美女』読んで備えておくのもいいですね。
 …しかし、『コレラの時代の愛』は出ないんでしょうか?
.20 2006 本についての雑記 comment4 trackback0

ウイリアム・シェイクスピア ハムレット


 今年のテーマとして掲げたシェイクスピア。これまでに11件の記事をUPしたがいまだにひとつもコメントもTBもつかない。だからといって不人気かといえばそうでもないらしく、結構シェイクスピア劇を検索してこのブログを訪問される方も多いようだ。と言っても私はただの読者で研究者でも翻訳者でもないのであんまり参考にはならないかも。

 さてそのシェイクスピア第12弾は四大悲劇の中でも最大の規模を持つ傑作「ハムレット」。文庫で200ページ近い物量を持ち、上演すれば5時間くらいかかるといわれるこの作品はローレンス・オリヴィエの1948年の名作を皮切りに何度も映画化されている。私はゼッフィレリとケネス・ブラナーの監督作を観た覚えがある。音楽作品ではトマの歌劇、チャイコフスキーの管弦楽曲が有名。

 物語はデンマーク王子ハムレットが亡霊に出会い、かねてから不審を抱いていた父王の死は現王の叔父クローディアスの仕業だと聞かされる。ハムレットは敵討ちを決意するが、そのために気が狂ったふりを演じ始める。しかし恋人オフィーリアの父ポローニアスを殺害してしまったハムレットは英国へ追放されるが…

 さてこの作品で一番疑問なのは、ハムレットはただ狂った真似をしていたのか、それとも本当に狂っていたのか、と言う事だ。王に盗み見られていることに気づき、オフィーリアに「尼寺へ行け!」というあたりは明らかに狂ったフリをしているのだが、自分が刺した相手が親友レイアティーズと恋人オフィーリアの父ポローニアスと知っても顔色ひとつ変えないのは尋常ではない。だが最後のほう、陰謀をかわして英国から戻ってきてからはどう読んでも正常である。ハムレットがどこまで狂っていたのか、狂っていなかったのかの解釈によってこの芝居の印象は大きく変わるだろう。

 それと、亡霊について。これはハムレット自身が復讐の動機づけのために自分に見せた幻影と捉えていいのだろうか?もしそうならなぜハムレット以外の人々(ホレイショーら)にも見えるのか? もっとも現代人に比べるとこの時代の人たちには亡霊って身近な存在だったのかも知れない。(マクベスも亡霊見るし…)
 ハムレットの母ガートルートはなぜクローディアスと再婚したのか、と言うのも大きな謎である。
 とにかくいろんな謎が盛り込まれていて深読みするには最高の古典傑作。

 さらに不気味に美しいオフィーリアの死の描写、ローゼンクランツとギルデスターンの悲劇、墓堀り人夫とハムレットの墓場での会話などすべてのシーンが見所。まさに天才の作と言えるだろう。
.18 2006 シェイクスピア comment0 trackback0

夏のお昼寝

今年の夏は暑い。
こう暑いと、ねこたちも昼寝するしかない。





.17 2006 ねこ comment4 trackback0

惑星の数が激増?


写真は「第10惑星

この記事(Yahooニュース)およびアサヒ・コムによると、『国際天文学連合(IAU)の委員会は16日、惑星の定義について原案を公表した。
 これまで惑星には明確な定義がなく、冥王星が含まれるかどうかについては長年の議論があった。
 原案はプラハで開かれている同連合総会で審議され、24日の投票で結論が出る。
 
 この原案に基づくと、従来の9惑星に加え、冥王星の衛星とされていたカロン、米航空宇宙局(NASA)が2005年に「第10惑星」と発表した「2003UB313」、火星と木星の間に位置する最大の小惑星セレスが条件にあてはまる。』ということだ。
 今回の定義の原案は以下の4つの骨子からなっている。

(1)惑星とは、(a)十分な質量を持つために自己重力が固体としての力よりも勝る結果、重力平衡(ほとんど球状)の形を持ち、(b)恒星の周りを回る天体で、恒星でも、また衛星でもないものとする。(従来冥王星の衛星とされてきたカロンは、冥王星とカロンの共通重心が冥王星の外にあるため二重惑星とみなすようだ)

(2)黄道面上で、ほぼ円軌道を持つ、1900年以前に発見された8つのClassical Planetsと、それ以外の太陽系の天体を区別する。後者は、すべて水星より小さい。また、セレスは上記(1)の定義から惑星であるが、歴史的理由により、他のClassical Planetsと区別するため、Dwarf Planetと呼ぶことを推奨する。

(3)冥王星や、最近発見された1つまたは複数のトランス・ネプチュニアン天体は、上記(1)の定義から、惑星である。Classical Planetsと対比して、これらは典型的に大きく傾いた軌道傾斜と歪んだ楕円軌道を持ち、軌道周期は200年を超えている。われわれは、冥王星が典型例となるこれらの天体群を、新しいカテゴリーとして、Plutonsと呼ぶ。

(4)太陽を回る他のすべての天体は、まとめてSmall Solar System Bodiesと呼ぶこととする。

 …これは原案なのでまだ決定ではないのだが、ちょっと賛成できないなあ。(1)の条件を満たすものを広義での「惑星」とするのであれば、セレスや「第10惑星」以外にも、2004DWも2005FY9もクアオアーもセドナも全部惑星ということになる。その基準で言うと私がちょっと考えただけでも少なくとも惑星の数が16個まで増えてしまう。(IAUはセレスなどを含め12個の惑星候補がある、と言っているらしい)

 さらにセレスが惑星になることで第5惑星だった木星が第6惑星に、というように外惑星の番号もずれてしまう。第9惑星だった冥王星は第10惑星になり、第11惑星カロンと二重惑星と言うことになる。ややこしい。

 そればかりかここ数年大型カイパーベルト天体の発見が相次いでいるのを考えると、今後際限なく惑星の数が増えてしまう可能性がある。私はやはりこれまでどおりにして、カイパーベルト天体は惑星とはみなさず、冥王星は例外(名誉惑星)とする方がいいと思うが、どうだろうか?
.16 2006 宇宙 comment0 trackback0

レイ・ブラッドベリ たんぽぽのお酒


 ブラッドベリはSF作家と思っている人が多いが、この人の本質はホラー風味幻想小説作家なのだと思う。SFとしての代表作「火星年代記」でさえ、火星が舞台だというだけでこの基本線からは全く外れていない。「火星年代記」は火星が舞台の幻想小説であり、SFではないのだ。

 この「たんぽぽのお酒」は、イリノイ州グリーンタウンに住む12歳の少年ダグラス・スポールディングが過ごす1928年の夏をノスタルジックに描いた作品である。十数年前に読んで感銘を受け、今回久しぶりに読んでみた。

 この作品は基本的に短いエピソードを積み重ねていく方法で書かれている。それぞれのエピソードにはサブタイトルなどはないので便宜的に「幸福マシン」「銅像ゲーム」などと呼ばせていただく。
 私がこの作品の中で一番気になったのは「オールドファッション・バニラ・ライム・アイス」のエピソードで、31歳の男性ビルと95歳の女性ヘレンのラブ・ストーリーである。アイスクリーム屋で「オールドファッション・バニラ・ライム・アイス」を注文したことがきっかけでビルとヘレンは知り合い、親密になるが、ヘレンは自分の死期が近いことを知り、ビルに来世で出会う約束をする。ヘレンは1985年か1990年の夏に、この場合にふさわしいアイスクリームを注文する事がきっかけで若い二人が出会う事を予言するのである。そしてヘレンは数日後には帰らぬ人になってしまう。
 1928年にははるかな未来だった1990年さえも、もはや遠い過去になってしまった今、私はビルとヘレンが再会できたのかちょっと気になっている。

 しかし、今回十数年ぶりに読んだ正直な感想は、「あまりにも後ろ向きな作者のスタンスが気に入らなかった」と言わざるを得ない。この作家の作品はこの作品に限らずノスタルジックで感傷的な物が多く、それこそがこの作家の美点で、ファンを惹きつける部分なのだろうが…

 たとえば「幸福マシン」のエピソードでは、アウフマン夫人は幸福マシンを体験してその中でパリを見せられ、ダンスをしたりするのだが、彼女は現実の世界(夕食を作ったり、子供の服を縫ったり)が待っていてその落差に耐えられないと言う。一見もっともに見える彼女の意見だが、よく考えると彼女の意見はきわめて保守的であることに気付く。現代人はみな日常と非日常は切り離して考えているはずだ。ダンスがしたいのならすればいい。パリに行く事ができないならパリの映像を観て楽しむ事のなにが悪いと言うのか。この作品は1957年に書かれているが、その時代(のアメリカ)から見てもブラッドベリの考え方は古すぎる。

 台所を片付けられて料理ができなくなるおばあちゃんの話もそうだ。おばあちゃんが料理ができなくなったのを知った登場人物たちは台所を元通り散らかしてしまう。そうすると、おばあちゃんはまたおいしい料理を作るのだ。こうしてユーモアの殻で巧妙にくるみながらブラッドベリは変化を、進歩を否定する。

 この作品にはノスタルジーと感傷しかない。登場人物はみな「今」または「過去」に固執する人物ばかり。主人公で12歳の少年ダグラスですら夏が終わることを恐れる後ろ向きな少年である。秋が来てもたんぽぽのお酒を一口飲んで夏を取り戻すなどと言っている。
 この作品の中で未来を語るのは前述の95歳の女性ミス・ヘレン・ルーミスだけである。この事はちょっと象徴的かも知れない。

 と、言うわけで「たんぽぽのお酒」は、昔好きだと思った作品を久しぶりに読んでがっかりした作品のひとつになった。
 実は「火星年代記」を読み直そうと思って買ってあるのだが、正直なんだか読む気がなくなってしまった。
.12 2006 北米文学 comment0 trackback0

溝ねこ


この夏の激烈な暑さのためか、猫がいない今日この頃。
日中はどこか涼しいところに潜んでいるに違いない。
やっと見つけた一匹。溝から出てきたところをパチリ
なかなかワルそうな奴だ。
.11 2006 ねこ comment0 trackback0

スタートレック・ボイジャー/生命体8472


スタートレック・ボーグ・ボックスに収録されていたエピソード。
 遠いデルタ宇宙域を地球に向けて航行しているUSSボイジャーは、ボーグ・キューブの大群に遭遇するが、ボーグたちはボイジャーを無視して飛び去ってしまう。ボーグたちは生命体8472と呼ばれる謎の異星人と交戦中で、しかも無敵のはずのボーグたちが圧倒されていたのだ。ボイジャーも生命体8472の攻撃を受け危機に陥る。ボイジャーのジェインウェイ艦長はボーグに生命体8472に対抗するために同盟を結ぼうと提案するが…

 このエピソードのもうひとつ興味深いのは「セブン・オブ・ナイン」が登場する事である。セブンはボーグ艦からボイジャーに派遣されたボーグのひとりで、同化された地球人の女性である。結局彼女はボイジャーに一人で取り残され、ボーグの集合意識から切り離されてボイジャーのクルーになっていく事になる。その驚くべきプロポーションで男性ファンが多いキャラクターである。

 前後編で90分、かなりの見ごたえである。(このボーグ・ボックスには90分ものが6本も入っているのだ)最強の敵として登場してきたボーグの、さらに上を行く戦闘力を持ち、しかも凶悪な生命体8472にどう対抗するのか、また、考えるだけでもきわめて危険なボーグとの同盟関係はどう保つのか、よく練られた見事なシナリオで素晴らしい。映像も「これがTVドラマ?」とあきれるほどの素晴らしさである。生命体8472がエイリアンっぽいところも、即効性ありすぎのナノマシーン攻撃も多めに見ちゃおう。週一回製作するTVドラマでここまでやっちゃうなんて。アメリカってすごい。
.10 2006 スタートレック comment2 trackback0

ウイリアム・シェイクスピア あらし


 今年の夏は暑い。暑くて本を読む気にもならない。なにか軽いものでも、と思って「夏の夜の夢」だけ読んでいた新潮文庫の残り「あらし(テンペスト)」を読みだしたのだが、暑さのせいかなかなか頭に入ってこない。

 「あらし(テンペスト)」は、ミラノ大公の地位を追われ無人島に逃れたプロスペローが、島での生活のうちに習得した魔法を使って嵐を起こし、政敵の乗る船を難破させる。政敵たちは島に上陸するが…と言う物語。
 これはシェイクスピアが最後に書いた作品だといわれている作品で、晩年の彼の作品を総称して「浪漫劇」と呼ぶ事があるがその代表的な一作である。主人公が死なないのだから喜劇に分類してもいいのだが、喜劇という言葉の軽いイメージとはどこか違う、どことはなしにクールな雰囲気を持つ作品である。
 訳者・福田恒存氏が言うには『「リア王」の世界を浄化したもの』なのだそうだ。
 映画はデレク・ジャーマン監督「テンペスト」(1979年)、現代劇にしたポール・マザースキー監督「テンペスト」(1982年)がある。有名なSF映画「禁断の惑星」もこの作品を下敷きにしている。「宇宙大作戦」にもよく似たエピソードがあったと記憶している。
 音楽作品としてはパーセルのオペラがある。ベートーヴェンの同名のピアノソナタ(第17番ニ短調作品31-2)が有名だが、これは直接のつながりはない。

 この作品のラストのプロスペローの口上が意味深い。
「これにて我が術は破れ、この身に残る力は生まれながらの現身の、まことにはかなき境涯、真の話、御見物の御意次第。…なにとぞ皆様の呪いをお解きくださいますよう。…」
 劇が終わった事を告げると同時に、シェイクスピアという稀代の劇作家の創作もこれにて終わり、と軽やかに宣言するのである。
 素晴らしい。作品の中で、これほど潔い引き際を見せた芸術家は他には誰もいないのではないだろうか。
.09 2006 シェイクスピア comment2 trackback0

スター・ウォーズを改めて観る


 昨日(6日)WOWOWでスター・ウォーズ全6作連続放送というのをやっていた。新三部作はハイヴィジョンで放送されるというのもあって、仕事から帰ってきた後エピソード2の終わりのほうからエピソード4まで観ていた。ハイヴィジョンで観る「クローンの攻撃」と「シスの復讐」はすごかった。劇場で「シスの復讐」は観たのだが、色では劇場を上回っている。「クローンの攻撃」のヨーダとドゥークーの対決ではヨーダの瞳に写るライトセーバーの光まで描きこんであるのがわかる。DVDでは気づかなかった。いやー、ハイヴィジョン万歳。

 で、改めて観て思ったのはSWってSF仕立てだけど実は剣と魔法のファンタジーなのだ、って事。
 6作を通じて善と悪の対立と、一度は悪に堕ちながら最後に悪を倒す事になる男を中心にした一代記が描かれているわけだが、特に新三部作は神話的でファンタジーの匂いが強い。旧三部作もそのままファンタジーに転用できる物語である(近日公開のファンタジー映画「エラゴン」はSWの「新たなる希望」と全く同じ荒筋)。ただし映画としては旧三部作の方が楽天的でまとまりがあって、若者3人組のロードムービーという要素もあって観ていて楽しい。(私はSW旧三部作の事を「3バカトリオ宇宙を行く」とひそかに呼んでいる)
 SWには様々な宇宙人が登場してくるが、彼らは姿が違うだけで本質は人間であり、コンタクトとか種族間の対立、技術的な事についての考証などといった問題にはほとんど興味がない。(その説明しなさぶりがまた魅力なんだけど)
 早い話が、SWの物語は時代を中世に移しても全く問題ないのである。舞台が宇宙である必然性は限りなく低い、と言わざるを得ない。

 実は最近私は「スタートレック」にはまっていて、集中的にかなりたくさん観たんだけど、これは本格SFに近い。こちらにはSFならではの事態とそれに伴う考察が色濃く盛り込まれていて、それでいいのか?と思う事もあるにしても、やっぱりレムやなんかの深刻なSFが好きな私にはこっちの方が性に合うようだ。
.08 2006 スター・ウォーズ comment2 trackback0

亀は意外と速く泳ぐ


2005年 日本
出演: 上野樹里、蒼井優、岩松了
監督: 三木聡

 TVを買い換えてからと言うものどうも以前よりもTV見ている時間が増えたような気がする。というわけで、昨日オンエアされていたのがこの映画。
 23歳の平凡な主婦すずめ(上野)。夫は単身赴任中。夫に頼まれたペットの亀にえさをやるだけの退屈な毎日を送っている。そんな彼女がある日ひょんなことからスパイになる、という物語。
 いわば脱力コメディである。絶対見ないといけないような傑作ではない。でも一度うっかり見てしまうとこのとぼけた魅力に参ってしまう、とてもヘンな、愛すべき作品。

 主演の上野樹里はもともとのほほんとしたイメージの女優さんだがそのキャラが見事に生きているし、すずめの幼馴染クジャク役の蒼井優のぶっ飛んだ演技もいい。「ハチミツとクローバー」のはぐを演じる女優さんだとはとても思えない。
 その他サブキャラがみないい味だしている。特に警察官役の伊武雅刀と嶋田久作のコンビがいいアクセントになっているし、ほんのちょっと登場する岡本信人の超変わり者のすずめの父もかなり可笑しい。
 要潤もイケメン俳優のプライドを投げ捨てて信じられないくらいキモいキャラを演じていて衝撃的。ファンの人は見ないほうがいいかも。

 それにしても、スパイだから平凡な市民を演じるよう命じられて戸惑うすずめの姿に「平凡ってなんだろう」と考えさせられたり、平凡なすずめと派手なクジャクのどっちが幸福なのかなど考えてみたり、ひょっとして深いところもあるのかもしれない、そんな映画だった。
.04 2006 映画(日本) comment0 trackback0

ピアノを弾く大統領


2002年 韓国
出演: アン・ソンギ、チェ・ジウ
監督: チョン・マンベ

 「冬のソナタ」でブレイクする直前(撮影は冬ソナより後かもしれない)のチェ・ジウの主演作品。これはコメディで、どこにもうたっていないが、どうやら「アメリカン・プレジデント」というアメリカ映画のリメイクなのだそうだ。もとの映画は知らないのでなんともいえないが、韓国映画ってこういう無断パクリってけっこう多かった。さすがに最近は「私の頭の中の消しゴム」などで出所をはっきり示している。世界に作品が出て行くようになったからだろう。

 で、この映画を観て、韓国の大統領って、一般市民にあんなに人気があるんだねえ、と言うのが一番の印象。日本ではこの題材では映画にならない。だってコイズミさん人気ないし。

 アン・ソンギは国家元首と言うよりも一人の男性、一人の父親としての大統領を演じて魅力的。チェ・ジウも「涙の女王」としてではなくコメディエンヌとして熱血女教師を熱演。なかなか新鮮だった。(実は私、この人あんまり好きじゃないんですが)
 あと大統領の一人娘を演じるイム・スジョンが印象的だった。もうちょっと出番多くてもよかったかな、と思う。
 韓国ドラマのお約束、不治の病、交通事故、記憶喪失などは一切ナシ。泣かされる心配もナシ。安心して観れる。

 それにしてもこのDVDのパッケージ、なんでクァク・ジェヨン(「猟奇的な彼女」「ラブ・ストーリー」の監督)の名前がこんなに大きく出てるのかな?脚本で参加しただけなのに。
.03 2006 映画(欧州・アジア) comment0 trackback0

ガルシア・マルケス 十二の遍歴の物語


 コロンビア出身のノーベル賞作家ガルシア・マルケスの十二の作品からなる短編集。わずか7~8ページの作品から長いものでも35ページくらいの、かなり短い作品ばかりが収められている。
 長編の印象が強烈な作家だが、よく考えてみるとこの人の長編小説、たとえば「族長の秋」「予告された殺人の記録」は小さなエピソードを積み上げて作られている。(もちろんそのまとめ方が凡百の作家とは比べ物にならないほどうまいのだが)だから短編集でも、全体から受ける印象は長編とそんなには変わらない。

 この短編集の特色はこの作家の作品の中では珍しく南米ではない国…ヨーロッパが舞台になっているという点が挙げられるだろう。ヨーロッパへ亡命してきた、旅行してきた、そして住んでいる南米人の物語が語られていく。
 冒頭の「大統領閣下、よいお旅を」は亡命した大統領と知り合った救急車の運転手オメーロの交流を描いた作品で、もちろんこの大統領はボリーバルではないし「族長の秋」の独裁者でもない。オメーロと妻ラサラは大統領に貧しい暮らしを助けてもらえるのではないかと期待するが、実は大統領の方こそ文無しでオメーロたちが助けてやらないといけないほどである。
 この作品を皮切りに、なぜか腐敗しない娘の奇跡の遺体を持って列聖に加えられるために骨を折る「聖女」、間違って精神病院に入院させられてしまう女性の悲劇を淡々と描く「『電話をかけに来ただけなの』」、新婚旅行でパリを訪れた若い二人を襲う二重の悲劇を描く「雪の上に落ちたお前の血の跡」など、あるときは不条理で、あるときは不気味で、そして美しいこの作家ならではの世界が繰り広げられる。

 どの作品もとても魅力的で、初めてこの作家の作品を読む人にもお奨めできる一冊である。ただし現在は判切れ。新潮社さんにはこの作品に限らずガルシア・マルケスの作品はすべて…いやバルガス・リョサやカルペンティエールも…一刻も早く文庫化してほしい。

 それにしても、冒頭の「緒言」によるとガルシア・マルケスは全部で64の短編を構想したらしい。その中で取捨選択の末生き残ったのがここで読める12編と言うわけである。レベルが高い物が残ったのは当たり前かもしれないが、他の捨てられた52編も読んでみたかったなあ、と思う。
.01 2006 中・南米文学 comment0 trackback0
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