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川端康成 伊豆の踊子


 川端康成の本は、実は「雪国」をずいぶん前に読んだのだがピンと来なくて、それっきり読んでいなかった。この「伊豆の踊子」も吉永小百合や山口百恵が主演した映画は観てたんだけど、恥ずかしながら今回はじめて読んだ。

 で…映画はどちらもほとんどこの小説のまんまなのだが、映画では最後の港での別れのシーンで、吉永小百合も山口百恵も別れが悲しくて主人公の乗る船を泣いて追いかけながら手を振ってたような気がするんだけど、小説にはそんな描写はナシ。いともあっさり別れてしまう。別れたあと主人公は船の中でぽろぽろ涙をこぼしながら「清々しい満足」を覚え「甘い快さ」を感じるのである。つまり彼は踊子との別れを、現代の若者がRPGの中で恋愛を経験したみたいに疑似体験しただけなのである。

 「伊豆の踊子」は35ページほどの短編で、この本には他に三篇の短編を収めてある。大正から昭和にかけてのもっと抑制の効いた文学を想像していたら、かなりエロティックな作品が並んでいる。「温泉宿」は宿の女中や酌婦たちの運命が交錯する短編ながら登場人物も多い複雑な作品であるし、「抒情歌」は報われなかった愛を語る女性の独白という形をとってきわめて粘着質な文体で書かれた鬼気迫る作品。

 いや~、さすがノーベル賞作家。一筋縄ではいかない。
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.30 2006 日本文学 comment2 trackback0

今日ののらねこ:駐車場にて



.28 2006 ねこ comment0 trackback0

羽海野チカ ハチミツとクローバー 第1~6巻


 これは以前から評判の少女漫画。古本屋で発見したので6巻まで買ってみた。現在第8巻まで発売されている。第9巻が近日発売だそうだ。
 同じアパートに住む竹本、真山、森田の三人は美大生。ビンボーながらも楽しくやっている。ある日花本教授の姪で天才少女はぐみと出会い、竹本と森田は恋に落ちる。その「本筋」と真山に恋する山田あゆみと、その気持ちを知っていながら過去のある年上の女性リカへの思いを断ち切れない真山の「副筋」がからみあってこの作品ができている。

 当初作者は「本筋」のみを考えていたようなのだが、はぐみと言うキャラが自分の作品以外のことは目に入らなくなるような天才少女と言うこともあって、どう考えても恋する少女ではない。このため「本筋」は一向に進まない。そこで恋する少女を配したのがあゆの方の「副筋」で、こちらの方はエピソードも多彩である。
 細やかな情感を描き出す腕前(いくつかのシーンで泣きそうになった)と、素晴らしいキレ味のギャグ(6巻までで少なくとも2回、爆笑して娘にあきれられた)が絡み合って目が離せない作品だ。

 私の要約を読んでもわかるように登場人物はみんながみんな片思いしている。片思いしながらも彼らの人間関係は微妙に安定している。作中で他の登場人物にも指摘されているように、真山とあゆの関係はかなり矛盾をはらんでいる。二人とも微妙な立ち位置で、読者としてはこの二人のあまりの善良さに苛立ちを覚えてしまうのだが、この二人の関係が微妙なバランスのまま安定しているがゆえにこの二人の物語は動かない。いつまでもこんなふうなみんなでいたい、と登場人物みなが思っているのだ。

 それでいて誰かがいないことが多いのもこの作品の特徴で、花本教授は研究のためモンゴルへ行く(2~3巻)し、森田はハリウッドへ行ってしまう(3~4巻)し、竹本は自分探しの自転車旅行に出る(6巻)。(ついでにローマイヤ先輩は第1巻で数ページ出てきただけである)若くして亡くなった父の不在が主人公である(?)竹本と言う青年の人となりに大きく関わっている。「ハチミツとクローバー」は不在の物語なのかもしれない。

 全体には集団劇として非常によく書かれた青春群像劇。私のようなオヤジが読んでもなんだか懐かしい思いにとらわれるノスタルジックな作品。
 21世紀にもこういう昔ながらの少女漫画…もちろん昔のままではないのだが…があって、それが支持されていると言うのは素晴らしい事だ。
 この夏映画も公開されるそうである。うまく作ると素晴らしい映画になりそうな気がするのだが。
.26 2006 コミック comment2 trackback0

ガルシア・マルケス 迷宮の将軍


 時は1830年。コロンビアの大統領を辞した建国の英雄シモン・ボリーバルは病を癒すべく旅に出るが…

 これは歴史小説である。我々日本人は学校で習わないこともあって、南米の歴史にはとても疎い。
 私もボリーバルという人物の事も知らなかったが、南米をスペインから開放し、統一国家を作ろうとした偉人で、南米の「ボリビア」と言う国の名前はこの人物の名前が由来なのだそうだ。
 ボリーバルについては巻末に詳しく解説されているのでそちらを参考にするといいだろう。

 ガルシア・マルケスはこのボリーバルの最後の旅を追いながら偉大な将軍・ボリーバルの光と影を描き出す。
 といってもこの小説に描かれるのは主に影の部分ばかりで、ボリーバルの過去の成功はかすかに匂わされるだけで、全体にとても暗い印象の作品である。

 はじめ全く予備知識なしで読み出したので、「族長の秋」のヴァリエーションかと思ったのだが、伝記的作品のためかこの作品には、この作家独特の幻想のはばたきも、強烈な揶揄もない。したがってガルシア・マルケスの作品の中ではかなり読みにくい作品と言えるだろう。初めてこの作家を読む読者にはお奨めしない。どちらかと言うとファンの人向けの作品と言っていいだろう。

 「族長の秋」で哄笑の中に独裁者の孤独を描き出したこの作家は、この作品では英雄の孤独に真摯に迫る。
 いかに偉大な人物であろうと、やはり一人の人間にすぎないのだ。
.25 2006 中・南米文学 comment2 trackback0

辻邦生 雷鳴の聞こえる午後(ある生涯の七つの場所3)


辻邦生の連作短編「ある生涯の七つの場所」の第1巻「霧の聖マリ」第2巻「夏の海の色」に続く第3巻。
 少年時代を描いた「赤」、ヨーロッパでのエマニュエルとの生活を描いた「黄」が終わり、高等学校に進んだ「橙」、社会主義者宮部音吉の足跡を追う「緑」がはじまる。

 このハードカヴァー版第3巻では「赤」「黄」の終わりのほうと「橙」「緑」の初めのほうが収められていて、「赤」と「橙」はスムースにつながったものの、「緑」でなぜ主人公が宮部の足跡を追うことになったのかよくわからないし、描き方もルポ風でこの作家独自の美しい日本語が感じられず、今ひとつしっくり来ない。逆に主人公の青春時代を描く「橙」は相変わらず好調。
 全体に第2巻に比べると残念ながらちょっとパワーダウンした印象。第2巻の表題作のような、これ、という一作がなかった。そのへんもあって以前読んだ時はここで挫折したのだろうか。

 今回はすでに第5巻まで入手済み、あとの作品もゆっくり読んでいこうと思っている。
.24 2006 日本文学 comment0 trackback0

自己紹介バトン

「自己紹介バトン」がコブタさんから来ました。
実は昨日mixiでmanimaniさんに同じバトンをもらって答えていたので、これはmixiと同じ内容です

1.回す5人を最初に書いておく
 mixiで指名済みなので指名は回避します。 

2.お名前は?
 piaa
 これは小学校三年の時に同級生につけられたニックネームで、もともとは「piya」でした。
 
3.おいくつですか?
 43歳。
 高校を卒業して四半世紀がすぎました

4.ご職業は?
 パソコン売ってます。

5.趣味は?
 音楽はクラシックから歌謡曲まで幅広く聴きます。
 好きなミュージシャンはバッハ、マーラー、ビル・エヴァンス、キース・ジャレット、ラウラ・パウジーニ、チャランガ・アバネーラ。
 本もかなりたくさん読むほうです。
 今まで読んだ中でのベスト3は
 レム「虚数」
 ガルシア・マルケス「予告された殺人の記録」
 カルヴィーノ「見えない都市」
 あと、のらねこ写真撮影

6.好きな異性のタイプは?
 女の人

7.特技は何?
 ビンボー

8.資格は何か持ってますか?
 普通運転免許
 
9.悩みは何かありますか?
 いつも眠い

10.お好きな食べ物とお嫌いな食べ物は?
 好き:おいしいもの
 嫌い:まずいもの

11.あなたが愛する人へ一言!
 同情するよりカネをくれ
.22 2006 日記など comment2 trackback1

41光年先に水の惑星?

欧州南天天文台(ESO)は、海王星並みの質量しかない三つの惑星が回っている惑星系を太陽系外で発見したと、18日付の英科学誌ネイチャーに発表した。最も外側の惑星には生物が生息できる環境が整っている可能性があるという。
phot-18a-06-preview.jpg
写真は想像図。
 惑星は地球から41光年離れ、太陽よりわずかに質量が少ない、HD69830と呼ばれる恒星の周りを回っている。ヨーロッパの研究者チームが南米・チリにあるESOの高性能望遠鏡を使って発見した。

 三つの惑星はそれぞれ恒星から0.07、0.18、0.63天文単位の距離を公転しているらしい。それぞれが地球の10倍から18倍の質量を持つと推定される。さらに小惑星帯も存在していると思われる。生物の生息する環境があるかもしれない一番外側の惑星には水が液体で存在する可能性があるそうだ。

 地球の10倍の質量を持つ惑星を仮定すると、地球の倍以上程度の直径を持ち、表面重力は地球の約3倍くらいだろうか。人が行けたとしても住むのはちょっとキツイだろう。
 もしこの星に住人がいたらどんな人たちだろう? もし科学が発達した文明ができても、重力が大きいと宇宙開発は進まないだろうなあ。
 もちろん41光年という距離の、極めて遠い星のこと、本当のところは行ってみないとわからないのだろう。SF小説のような、人類が他の恒星系に旅するような時代は、いつか来るのだろうか?
 それにしても望遠鏡の観測だけでこんな小さな惑星を見つけてしまうなんて本当にスゴイ。いつもながら感心してしまう。
.21 2006 宇宙 comment2 trackback0

J.K.ローリング ハリー・ポッターと謎のプリンス


 イギリスの作家J.Kローリングの超有名学園ファンタジーシリーズ第6巻。RINRINがファンなので発売と同時に購入した。第5巻も上下二冊、前作「不死鳥の騎士団」よりはすこし短いようだが、トータル約900ページのボリュームである。

 まず読む前にざっと前作「不死鳥の騎士団」をおさらいしておかないといけない。前作を読んだのはもう2年も前なのでいろいろと細部を忘れてしまっているはずだ。
 とてもネタバレなしでレヴューできそうにないので、ネタバレOKの人のみ「続きを読む」をクリックしてください。
.19 2006 英文学 comment0 trackback0

ストルガツキー 世界終末十億年前


 さてもうじきW杯。W杯がはじまってしまうと、すべてがサッカー中心の毎日になるのでそれまでに読むべき本は読んどこうとも思うのだが、なんか無理して読むのもねえ。
 と言うわけであまたの積ン読本をうっちゃって読んだのがこれ。

 画期的な発明・発見を目前にした科学者達の前に次々と奇妙な事件が起こり、訪問者が現れる。どうやら超文明が人類の進歩に干渉しているらしい。主人公マリャーノフの前にも謎の女リードチカが現れ、隣人スニェゴヴォーイは奇妙なことを口走り、翌朝遺体で発見される…

 と、こう書くとミステリみたいだが、読んでみると全然違う。ストルガツキーの作品としては短い200ページほどの中篇で、書かれた時期が傑作「蟻塚の中のかぶと虫」とほぼ同じ時期で、超文明ネタと言う点では共通した部分もある。しかしかなりSFミステリぽかった「蟻塚…」とは物語の感触がまるで違う。こちらの方は普通の現代小説風に始まり、そこに少しづつ超文明による干渉(らしいもの)をまぶしていく手法で、読んでいてちょっと怖いような不気味な印象がある。

 超文明の干渉の方法があまりにも下世話だったりしすぎてちょっと鼻白むところもあるが、この作品の言わんとすることは超文明をソビエト当局に、科学者を作家に置き換えると明らかになる。共産主義国家で、出る杭は打たれろ的な強いプレッシャーを受けた作家はどう生きるべきなのかを、まじめに考察した作品と考えていいと思う。
 結論は当局の目を盗んで書くこと。こうして書かれた作品を守ろうとする物語が「モスクワ妄想倶楽部」であり、書かれた作品こそがあの最高傑作「滅びの都」なのである。
.16 2006 ストルガツキー comment8 trackback1

渡辺暁雄 シベリウス:交響曲全集

いまドッペルさんのブログなどで局地的にブームのシベリウス。
 もともと好きな作曲家だし、記事を読んで聴きたくなった。
 シベリウスの交響曲のCDはバーンスタイン指揮のDG盤の4曲(番号では1、2、5、7番)しか持っていない。これはバーンスタイン一流のダイナミックで粘着質な名演奏だが、シベリウスらしいとはいえない演奏だ。
 そういえばわが家にもシベリウスの交響曲全集ってあったよなあ、と考えてみたら実家に20ン年前にLPで買った渡辺暁雄指揮日本フィルのコロンビア盤を持っていて、たしかLP5枚組みで11500円したような(現在は廃盤)。それをDATに収めたテープを持っていた。
 この際CD化しようと決意、かなり手間がかかったがPCに取り込んでCD3枚に書き込んで、晴れてかつての渡辺暁雄の名演がCDで蘇った。

↑渡辺暁雄氏。クリックで拡大
渡辺暁雄氏は1919年生まれ1990年没の日本の指揮者。母がフィンランド人だったので、彼にとってシベリウスは文字通り母国の音楽だった。シベリウスをはじめとする北欧の作品を精力的にわが国に紹介した指揮者で、日本フィルの創設者でもある。 このシベリウスの全集もどれも深い共感を感じさせた上で、下手をすると難解になりそうなシベリウスの音楽をとても理解しやすく聴かせてくれる名盤である。当時の日本フィルの合奏力が弱いとも言われるがこれを聴いてて特にそうは思わなかった。
 多分1980年前後に録音されたDENONの当時最先端のデジタル・レコーディングで、音質もかなりいい。(私の作ったCDではアナログ盤の針音が入るが。これは致し方なし)

 さてここからは作品論。シベリウスは92年の長い人生の間に7曲の交響曲を書いた。
 シベリウスは「カレワラ」に基づくたくさんの交響詩や、「ペレアスとメリザンド」「テンペスト」などの劇伴奏音楽を書いていてこれらの作品は当然ストーリーに基づいた標題音楽なのだが、交響曲には一切表題はなく、モーツァルトの交響曲同様純粋な抽象音楽である。
 第1番はよく言われるとおりチャイコフスキーの影響が如実に感じられ、有名な第2番も彼独自のロマンティズムは感じられるものの、その延長上にあると思う。彼の作風がはっきり出たのは第3番以降である。私の好きなのは壮大でドラマティックな第5番とシベリウスの音楽のエキスを濃厚に煮込んだような第7番。いや聴いているとどれも好きなんだけど…
 総じて独特の響きと大きなスケールを持った音楽である。他のクラシックの作曲家とはだいぶ印象が違うのではないだろうか。
.15 2006 クラシック音楽 comment2 trackback0

スタニスワフ・レム 星からの帰還 


 先ごろ亡くなったポーランドの作家スタニスワフ・レムの、有名な「ソラリス」「砂漠の惑星」と並ぶ、SF作家としてのレムを代表する作品。

 ハル・ブレッグは宇宙飛行士。10年の宇宙探査から地球に帰還すると、地球上では127年が経過していた、と言う物語。
 まず冒頭、月から地球についたハルが見聞きする迷宮そのもののような地球の街の描写が圧巻である。読者もハルと一緒に迷宮に迷うようだ。
 この時代の人々はすべて「ベトリゼーション」という医学的処置を受けている。これは人々から攻撃性を取り除く作用をする。この処置が人類全体に施される事によって犯罪や戦争は人類社会からなくなったのだが、そのかわり人心から「冒険」や「競争」は消え去った。この結果、宇宙探査も行われなくなったし、社会の進歩は停滞してしまった。
 ここで描かれる未来社会はエフレーモフの「アンドロメダ星雲」に描かれる理想社会にちょっと似ていないだろうか。私は「アンドロメダ星雲」のレヴューでこんな理想社会は面白くないのでゴメンだと書いたが、ハルと、彼と一緒に地球に戻ってきたオラフも同じように思う。何もかも素晴らしいのだが、物足りないのだ。ハルはエリという恋人を見つけそこに安住しようとするが、オラフは地球に絶望してまた宇宙へ旅立とうとする。

 100年経ったとき世界がどのように変化しているか考えて見る。逆に100年前の人が今の世界に急に現れたら、我々にとって当たり前のこと…自動車やTVや携帯電話やインターネット…が、理解できないだろう。同じようにハルや読者はレアルやラストやウルダーやプラスト・スプレーが理解できないのだ。いや、理解できなくて当然だ。我々がTVや携帯電話を100年前の人物にうまく説明できるとも思えない。
 この、理解できないと言う事を描くとレムは天下一品である。
 そして物語の中で断片的に語られるハルとオラフの体験した驚異と危険に満ちた宇宙旅行の物語…この部分に読者は逆にノスタルジーを覚えてしまうのだ。

 これは「ソラリス」と同じように「未知との出会いの物語」であると考える事もできる。ソラリスの海であれ、レギス第3惑星の黒雲であれ、ベトリゼーション処置済みの人類であれ、程度の差こそあれ理解できないことに変わりはないのかも知れない。
 そして、ラスト。ここは違う解釈の人もいるようだが、私はハルは自分がすでに地球の一員であることを自覚し、この世界に生きていく事を決意して終わっていると考えている。
わが家のある南をさし、土を踏みしめながら山を降りはじめた」と言う結びがそれを示していると思う。

 それにしてもベトリゼーションと言う処置を全人類に施すと言うのはいったいどんな政府なのだろう。食事や宿泊などの基本的なサーヴィスがすべて無料なのを考えても、やはり共産主義ユートピアなのか?この本が書かれたのは1960年頃(出版が1961年)。共産主義が全盛だった時代である。
レムは共産主義の行く末に対する批判と疑問をも、この作品に滲ませていたのかもしれない。

 10数年ぶりに読んだ。わが家は湿気が多いせいかそろそろ本がヤバイ。もうじきばらばらになりそうだ。早いとこ復刊してもらわないと。「砂漠の惑星」が6月にハヤカワから復刊されるそうであるが、引き続き他のレム作品の復刊を期待している。
.13 2006 スタニスワフ・レム comment3 trackback0

タイタンの眺め

2005年1月14日に土星の衛星タイタンに着陸したホイヘンス・プローブの撮影したカラー写真がNASA/JPL、ESAから発表された。

↑矢印で拡大。
さらにNASAのカッシーニのHPではこれをもとにしたビデオ映像を見ることができる。「QuickTime (closed captioned) (15.4 MB) 」と書いてあるところをクリック。要QuickTime。
 改めて見るとやはり液体が流れたあとなどが鮮明に見て取れる。はじめモノクロ写真で見たときに海か湖に見えた黒い部分は、カラーで見ると湿った砂地のような感じに見えてよりリアル。なによりカラーで見ると説得力が違う。
 一般人の我々はこのカラー写真を見て初めてタイタンという原始地球に似ていると言われる星の確かなイメージが掴めたのではないだろうか。

 それにしても、はるか遠くの星の様子を鮮明なイメージで見ることができるのはすごい事だし、素晴らしいことだ。
 でもこんなすごい写真を1年以上も出さないなんて人の悪い連中だ、とも思ったりして。
.12 2006 宇宙 comment0 trackback0

さよなら、ジジ


まゆまゆの実家の近所に住んでいたのらの黒猫ジジが今日亡くなった。
本当に全身真っ黒いきれいな猫で、人に飼われていて迷ってきたらしく、人懐っこい可愛い奴だった。
人になれていたから近所の人たちに餌をたくさん貰ってのんきに生きて、のらとしては幸せな一生だったと思う。
天国でものんびりだらりと過ごすんだろうな。
さよなら、ジジ
.11 2006 ねこ comment0 trackback0

ねむいにゃん


最近オリンパスの10倍ズームのデジカメ(もちろん中古)を手に入れた。のらねこを撮るには最適!
200万画素しかないのも、メモリが高価かつ耐久性の低いスマートメディアなのも目をつぶろう。でもでかすぎ。
.10 2006 ねこ comment2 trackback0

あずまきよひこ よつばと!第3~5巻


 先月27日に第5巻が出たが、地方の悲しさか実際に手に入れたのは5月にはいってからだった。第3巻は先に読んでいたのだがここでまとめてレビューする事にする。
 このマンガは日にちの経過がはっきりしていて、第1巻の冒頭が夏休みの始まる日と言うか1学期の終わる日、すなわち7月19日。そして第5巻の最後が8月30日なので、5冊で夏休み期間を(一日残ってはいるが)描ききったことになる。

 マンガの単行本としては第3巻のまとまり具合は画期的なもので、よつばとあさぎの「おみやげ」のやり取りから花火大会へとつながって行く構成の巧みさは特筆すべきだろう。最後の花火のシーンがカラーになっているのもニクイ演出。
 第4巻では釣りに行ったり風香の失恋で盛り上がったりしながら第5巻へ。ダンボーのエピソードやヤンダのエピソードで大笑いしながら迎える、最後の、海へ出かけるエピソードは秀逸。電車の窓から海が見えるシーンは、いつか小さい時に同じようなシーンを経験した感動がよみがえる素晴らしいシーンである。

 私はあんまりマンガを読まないのだが、マンガって割と雑なものが多いと思う。たとえば今話題の「デスノート」は面白いのだが、死神とかそういった道具立て云々ではなく、物語の始めの方の主人公の行動の動機付けがすごく不自然なために全体がウソっぽいまま進んでしまっている。
 全く傾向の違う作品なので同列に論じるのは難しいが「よつばと!」にはそういう不自然さが全く感じられない。よつばの性格が誇張されすぎと言う読者もいるようだが、それはその読者のまわりにパワフルな子供がいなかったからそう思うだけだ。
 以前も書いたがよつばはわが家のMINMINにそっくり。私の妻のまゆまゆは「マンガでまでMINMINのこと読まなくていいよ」と言うくらいである。「よつばと!」のエピソードのほとんどは実際わが家で起こった事と言っても間違いではない。
 そう言う普通の登場人物たちの普通の日常をさりげない笑いを交えて描いた名作。ここ10年くらいで私の読んだマンガの中では最高傑作と言っていいだろう。

 さて長かった夏も終わり。よつばたちはこれからどんな秋を迎えるのだろう。続きを、のんびり待つ事にしよう。
.09 2006 コミック comment2 trackback0

ウイリアム・シェイクスピア オセロー


 シェイクスピア・シリーズ第9弾は四大悲劇のひとつ「オセロー」。
 ちなみに四大悲劇ってどの4作かみなさん知ってますか?
正解は「マクベス」「オセロー」「ハムレット」「リア王」の四つです。「ロメオとジュリエット」は違うんですよ。
 この超有名な四大悲劇の中でどう考えてもひとつだけ毛色が違うのがこの作品。魔女も亡霊も出てこないし、戦争も起きない。主人公は王でも王子でもないし、ころっと騙されて愛妻を疑いだし、終いにはさしたる証拠もなく妻を殺害してしまう。そこには国家の命運がかかっているわけでもないし、この作品のなかで起きる悲劇はわりと平凡な家庭内悲劇と言える。

 主人公はムーア人(黒人)でありながら将軍となった武人オセロー。この時代、人種差別が今よりもひどかったはずだが、軍では手柄を立てさえすれば意外と出世できたと言う事だろうか。この戦いに明け暮れていた武人のオセローが実力者の娘デステモナと結婚したまではよかったのだが、部下のイアーゴーの奸計に遭ってデステモナが副官のキャシオーと密通しているのではないかと疑い、それがもとでやがて破滅すると言う物語である。

 オセローは立場上やろうと思えばデステモナとキャシオーを直接呼び出して詰問する事も可能だったし、逆になぜイアーゴーを「誠実な男」と信じきって彼の言う事を鵜呑みにしてしまうかもよくわからない。昔の人は単純だったと言えばそこまでだが。
 このへんもあってか四大悲劇の中では一番地味な扱いを受けている作品だろう。

 この作品をもとにした芸術作品としてはヴェルディの素晴らしいオペラ「オテロ」が有名。これは数多いシェイクスピア作品のオペラ化作品の中でも最高傑作かと思う。
 映画ではオーレンス・オリヴィエ主演の65年のものが有名。
.08 2006 シェイクスピア comment0 trackback0

リチャード・ブローティガン ビッグ・サーの南軍将軍


 前回読んだ「アメリカの鱒釣り」がとてもインパクトが強かったのでつい買ってしまった。

 まず、タイトルにある「ビッグ・サー Big Sur」はアメリカ西海岸の『サンフランシスコから約150マイル南、ロサンゼルスからはおよそ300マイル北の、シーニック・ハイウェイ・ワンという道路沿いに広がる美しい海岸線地帯の事』だそうで、もちろんこの小説に書かれているような、南北戦争時に独立した州だったわけでもないし、南軍に参加したわけでもない。

 この小説はここに住むヒッピーのリー・メロンと「わたし」の奇妙でハチャメチャな共同生活を描いた作品で、「アメリカの鱒釣り」よりもはるかに明快なストーリーが展開する。短い詩的な文章をちりばめるようにして進めていく小説としての構造は「アメリカの鱒釣り」とよく似ている。

 イカレたリー・メロンを中心に、さらにイカレた男ロイ・アールやマリファナに夢中になってしまうイレーヌなどの登場人物を配して、60年代アメリカの狂気がマリファナ煙草の煙と一緒に漂ってくるような作品である。
 それでいて詩的・文学的な作品であることも疑いようがない。この二面性と、60年代という特別な時代の空気こそブローティガンの魅力なのだろう。

 ぜんぜん話が違うがアマゾンでブローティガンの本を検索していたところ、『村上春樹が外人名で書いたとしか思えない』と書いている人がいた。これは違う。正しくは『ブローティガンの作品を訳した藤本和子氏の文体を村上春樹が真似した』のである。
 藤本氏の訳はそう言われるだけの価値のある素晴らしいものだ。一般に翻訳作品は行間に含みを持たせる日本語のウエットな部分が出せない(元の言語にそれがないので出せなくて当たり前)のだが、この本にはその日本語ならではのウエット感や詩的なものがある。この点で普通の翻訳小説のレベルを大幅に飛び越していると思う。
.06 2006 北米文学 comment0 trackback0

鍋島雅治・はしもとみつお 築地魚河岸三代目 第15~17集


 昨年8月末に発売された第15集から先日発売の第17集まで、買っておきながら読んでなかった。今日やっと読んだ。
 原作者が友人なので、義理堅い私はちゃんと発売のたびに買ってはいるのだが、なにしろ字が多いマンガなのでなかなか読む踏ん切りがつかないのだ。

 で、第15集「幻の養殖カレイ」では三代目は幻のカレイ・マツカワを追って岩手県釜石市へ、
第16集「溶けないウニ」では保存用のミョウバンを使わなくても溶けないウニ、エゾバフンウニを探して北海道利尻島へ、
そして第17集「ブランドのイカ」では「壱岐剣」と呼ばれるブランド物のイカを追って長崎県の壱岐へと全国を飛び回ってうまい海産物を探すのであった。取材、ご苦労さんです。もう毎回うまいもんばっか食わされて大変だろうなあ。

 いつもながら安心して読める内容である。漁業についてを書こうとすると環境問題など避けて通れない問題もありそうだが、声高に訴えるのではなく、そういう問題を読者にさりげなく意識させるところもいい。
 さすがに三冊続けて読んだら疲れたが…早読みの私でも一冊30分以上かかる文字の多いマンガである。

 実はずっと前からうちの子供たちをこのマンガに出してくれと原作者に頼んでいるのだが、いつになったら実現するのかねえ。私のフルネームは(別の作品だけど)使ったくせに。
 今後この作品に、お魚大好きな姉妹が出てきたらそれはうちのRINRINとMINMINの事、かもしれない。
.04 2006 コミック comment0 trackback0

イタロ・カルヴィーノ 木のぼり男爵


 カルヴィーノの、「まっぷたつの子爵」「不在の騎士」とともに三部作をなす時代小説。
 1767年6月15日の昼食の時、ロンドー男爵家の長男で12歳のコジモは姉バッティスタの作ったカタツムリ料理を拒否して木に登った。コジモは一生木から下りないと宣言し、そしてその言葉どおり実際にそれ以降の生涯を木の上で過ごし、一度も地面に触れる事がなった。という物語である。
 コジモは木の上に住んでいてもさまざまな事件や時代のうねりに巻き込まれ、恋をし、しまいにはナポレオンに謁見したりするのである。

 この作家は、「木の上で一生を過ごした男の生涯」というたったそれだけの奇想で300ページの長編小説を編んだ事になる。まあ一見「不在の騎士」の存在しない騎士よりは現実に近いような気もするが、現実に近いだけ余計に現実にはありえない物語だともいえる。「不在の騎士」のアジルールフォについては、彼の存在をなにかの寓意と捉えて解釈する事がいくらでも出来そうだが、この本の主人公コジモは「木に登って下りてこない」以外は全く普通の男なので、寓意だとか象徴などと解釈することは難しい。

 ではこの作品はなんなのだろう。森の木を伝ってどこへでも行けた、失われた18世紀という時代へのノスタルジーなのか?
それとも森を失いつつある現代への警鐘なのか?
 確かにそういう風に読めなくもないが、これはやはり「ほら吹き男爵の冒険」をさらに強烈に現代風にパロディー化した作品と考えていいと思う。と言っても「ほら吹き男爵」みたいなナンセンスギャグ満載の作品ではない。その作品世界は軽妙でありながら豊饒で味わい深い。
 そして幕切れの、詩的だがメタフィクショナルな結びが印象深い、余韻を残す作品である。

 この本を読んでいる最中にこの本の、そしてカルヴィーノ作品の主要な翻訳者のひとりでおられた米川良夫(よねかわ・りょうふ)氏の逝去の報に接することになった。
 わが国はまた一人、名翻訳者を失うことになった。とても残念である。
 米川氏のご冥福をお祈りいたします。
.01 2006 イタリア文学 comment2 trackback0
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