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スタニスワフ・レム ソラリス

solaris2.jpeg
すみれ色のもやに覆われた惑星ソラリスの海。この海はひとつの生命体で、巨大な脳である。数世紀にわたり人類はこの「海」を調査してきたが、わかったことは人類には「海」が理解できないということだけであった。
 もはやさびれてしまったソラリス観測ステーションに心理学者クリス・ケルヴィンが赴任するが、以前からここに住んでいるギバリャンは自殺し、サルトリウスとスナウトは様子が変だ。それぞれの身に何か異常な事態が起こっているようだ。
 そしてクリスの元にもそれはやってきた。

 大学生の時…もう二十年以上も前、スタニスワフ・レム作・飯田規和訳の「ソラリスの陽のもとに」を読んで、私の最も愛する小説の一つになった。
 初めて読んだ時、下宿の部屋で一人深夜に読んでいて、ヒロイン・ハリーの2度目の出現のシーンでぞっとしてなんだか後ろが気になったのを覚えている。
 タルコフスキーによる映画も大好きであるがやはりこの小説の素晴らしさは映画を遥かに超えている。
 二十数年の間に文庫本のカバーはボロボロ、中のページも茶色に変色してきて印刷もうすれてきた。やはり本はハードカヴァーで持っていたいものだが、もうこの作品をハードカヴァーで手に入れるのは無理なのだろうとあきらめかけていた。

 ところが新訳(沼野充義訳)のハードカヴァーが国書刊行会から出ているのを今年になって知って、ついにこの作品のハードカヴァーを手に入れる事が出来た。 新訳・沼野版は飯田版が底本としたロシア語版で削除されていた部分が復活して完訳となった点が従来と大きな違いである。この部分は主に宗教がらみの記述が多くて当時のソ連政府の検閲にあったらしい。
 沼野版はクールな訳で、レムの知的な作風にマッチしている。飯田版が割と情緒的な訳であった(ゆえにこの作品をラブストーリーと思った読者も多かったのだろうか)事に気づかされたが、気になったのは脇役のスナウト博士が一人称を「おれ」その複数形を「おれたち」と言うのはちょっと…飯田版の「ぼく」「われわれ」の方が人のいいインテリのスナウトらしいと思うのだが…

 さらに、飯田訳のハリーがクリスに本当の事を話してくれと頼むシーンでのセリフ「指切りする?」がこの沼野訳では「聖なる物にかけて?」に変わっている。これは前述のロシア語版の検閲のせいなのか、単なる訳者の違いからきたのかよくわからないが、飯田役は情緒的すぎ、沼野訳は固すぎだと思う。私ならフツーに「誓って?」とするけどなぁ。

 よく言われるように、レムの意図は「無敵(邦題:砂漠の惑星)」同様、宇宙における未知なる物との出会いと、それによって起きる人間の、心理的な反応を描くことだったらしい。
 そこにハリーと言う女性を登場させたことでこの作品は作者の意図を超え、SFという垣根をうちやぶってラブロマンスとして、スリラーとして、さらに純文学としてもかなり高いレベルの作品になっていると思う。

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.11 2005 スタニスワフ・レム comment6 trackback4
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