ストルガツキー 幽霊殺人
2008-05-21-Wed-00:04

私が以前作ったストルガツキー兄弟の作品リストからも漏れていた、まさに幻の作品。ハヤカワSFシリーズという、ポケミスと同じサイズの版型で昭和49年に発売されていた。作品自体は1970年に発表されたものである。
現在古本屋さんでは6千円程度で取引されている。その貴重な本をntmymさんのご好意で読ませていただいた。
ストルガツキー 火星人第二の来襲
2008-05-06-Tue-23:43
RINRIN vs ストルガツキー
2007-03-14-Wed-21:44

SFといえば「宇宙大作戦」のノヴェライズくらいしか読んだことがない長女RINRINが、「蟻塚の中のかぶと虫」を読了。写真はハードカヴァーだが、彼女が読んだのは文庫版。シコルスキーを「閣下」と呼ぶほうだ。
中学2年生にしてストルガツキー作品にはじめて触れた彼女の感想は…
ストルガツキー リットル・マン
2006-11-06-Mon-13:22

群像社から出ていた季刊「ソヴェート文学」という雑誌の1973年夏号に掲載された140ページほどの中編小説。その後は全く本になっっていない幻の作品。実はこれ、「収容所惑星」「蟻塚の中のかぶと虫」「波が風を消す」の3作、いわゆる「マクシム3部作」や「神様はつらい」、私は未読だが「ラドガ壊滅」さらには「地獄から来た青年」と同じ世界の作品で、いわばサーガを形成する作品群の一角を占める作品でもある。
ストルガツキー 地獄から来た青年
2006-10-25-Wed-00:08

「アライ公国」と「帝国」が激しい戦いを続ける惑星ギガンダ。瀕死の兵士ガークは地球人に救い出されるが…
この作品は「蟻塚の中のかぶと虫」をはじめとする「マクシム三部作」や「神様はつらい」と同じ世界の物語である。この世界ではコムコンという組織が他の惑星の進歩を手助けするためにプログレッサー(進歩官)と呼ばれる人々を各惑星に派遣している。「神様…」でアントンがアルカナル王国に、「蟻塚…」ではレフ・アバルキンが惑星サラクシや「希望」に派遣されていたように、この作品でもギガンダに派遣されるプログレッサーらしき人物が登場する。ガークの世話係(?)コルネイももともとはプログレッサーらしい。
コムコンのやっていることは内政干渉に他ならない。東欧やチェチェンを押さえ込むのと程度の差こそあれ、いかにもソヴィエト連邦らしいやり方といえるだろう。
この作品ではコムコンのやっていることは背景にすぎず、戦争しか知らないガークが平和な地球での暮らしで受けるカルチャー・ショックが主に描かれる。ロボットのドランパに軍事教練を行ったりするあたりは滑稽ともいえるが、作者は戦争の地獄から平和ボケの地獄へやってきた青年の戸惑いと選択を通じて「正義」とか「幸福」の価値観に絶対と言うものがないことを描こうとしているようだ。
さてここから先は「蟻塚の中のかぶと虫」とのつながりから見ていくことにする。(ネタバレを避けるために非常に重要なことを書かないので、とてもわかりにくいと思いますがご了承ください)
問題はコルネイと言う人物だが、この人物はコルネイ・ヤノーヴィッチ。同名の人物が「蟻塚…」に登場する。ハードカヴァーの102ページ、文庫の163ページにコルネイ・ヤノヴィッチ・ヤシマアと言う人物の記載がある。
かれは惑星ギガンダの専門家で「ヤンのキャンプ」と言われる土地に住んでいる。この内容が一致するので同一人物と考えていい。だがドランパはコルネイが引退した父のヤンにこの土地を譲られたと言っているが、「蟻塚…」でマクシムはコルネイが遺児で彼の両親は「鏡」実験で死んだと言っている。これは遺児になったコルネイをヤンが引き取ったというところか。
コルネイと同じ歳のレフ・アバルキンが生まれたのは38年。「蟻塚…」の物語は78年なのでコルネイは40歳である。「地獄…」ではドランパがコルネイは60歳くらいと言うのでそれが正しいとすると「地獄…」は「蟻塚…」の約20年後。「波が風を消す」が99年なのでほぼ同じ時期である。
ドランパが言うには、コルネイには推定25歳のアンドレイと言う息子がいる。ここは一番の疑問点である。「蟻塚…」の時点でアンドレイはすでに生まれていたわけで、あのシコルスキーが、コルネイのような立場の人物が子供を持つのを容認するとは思えない。ドランパもコルネイの妻については情報がないというし…とするとこれも義理の息子?
「波が風を消す」と同時期と言うことは、地球では類人類の独立が始まったころと言うわけである。そういう風に考えていくと非常に興味深い。それにしてもコルネイに危険性なしとして地球に住むのを許可したのはだれだろう?
ただしストルガツキー兄弟がもともとそこまで考えて書いたのかは疑わしい。この本を手にとる方は、シリーズ物として他の作品を意識する必要はないと思う。
ストルガツキー 世界終末十億年前
2006-05-16-Tue-23:18

さてもうじきW杯。W杯がはじまってしまうと、すべてがサッカー中心の毎日になるのでそれまでに読むべき本は読んどこうとも思うのだが、なんか無理して読むのもねえ。
と言うわけであまたの積ン読本をうっちゃって読んだのがこれ。
画期的な発明・発見を目前にした科学者達の前に次々と奇妙な事件が起こり、訪問者が現れる。どうやら超文明が人類の進歩に干渉しているらしい。主人公マリャーノフの前にも謎の女リードチカが現れ、隣人スニェゴヴォーイは奇妙なことを口走り、翌朝遺体で発見される…
と、こう書くとミステリみたいだが、読んでみると全然違う。ストルガツキーの作品としては短い200ページほどの中篇で、書かれた時期が傑作「蟻塚の中のかぶと虫」とほぼ同じ時期で、超文明ネタと言う点では共通した部分もある。しかしかなりSFミステリぽかった「蟻塚…」とは物語の感触がまるで違う。こちらの方は普通の現代小説風に始まり、そこに少しづつ超文明による干渉(らしいもの)をまぶしていく手法で、読んでいてちょっと怖いような不気味な印象がある。
超文明の干渉の方法があまりにも下世話だったりしすぎてちょっと鼻白むところもあるが、この作品の言わんとすることは超文明をソビエト当局に、科学者を作家に置き換えると明らかになる。共産主義国家で、出る杭は打たれろ的な強いプレッシャーを受けた作家はどう生きるべきなのかを、まじめに考察した作品と考えていいと思う。
結論は当局の目を盗んで書くこと。こうして書かれた作品を守ろうとする物語が「モスクワ妄想倶楽部」であり、書かれた作品こそがあの最高傑作「滅びの都」なのである。
ストルガツキー 願望機
2006-02-26-Sun-23:11

半年ぶりのストルガツキーは、タルコフスキーの映画「ストーカー」のために書かれ、結局採用されなったシナリオ「願望機」。
まず説明しておくと、タルコフスキーの映画「ストーカー」はストルガツキーの原作「路傍のピクニック」の第4章を元にしているのだが、原作とはもはや全く違う物語である。登場人物は「ストーカー」と彼の妻、「ストーカー」の案内で願いがかなうという「願望機」のある場所に行こうとする「作家」と「教授」の四人だけである。彼らはゾーンに侵入し、いがみ合いながらも苦労の末願望機にたどり着くが、結局目的を果たさず戻ってくるというストーリーである。
「願望機」のほうも基本のプロットは完成した映画と同じなのだが、大きく違う点はなんと言っても主役のストーカーの性格である。映画のストーカーはインテリでなんとなく気弱な男だが、「願望機」のストーカーは「路傍のピクニック」の主人公レドリック・シュハルトと同じようなタフな男である。映画では全く描かれない「ゾーン」の異常な現象も、何年もアイドリングし続ける車などが盛り込まれている。このためこのシナリオは全体に映画と原作のちょうど中間の作品といった印象を受ける。
作家と教授を友と呼ぶ、人間を肯定するラストも好感が持てる。
実はタルコフスキーはこれに近いシナリオで映画の撮影を終えていたそうだ。このフィルムは信じられないことに、現像所の事故で完全に失われてしまい、その後撮影しなおされたのが現在見ることができる映画「ストーカー」なのだそうだ。
タルコフスキー夫人の証言によると「撮影しなされたときに、主役の性格が変更になった」のだそうだ。タルコフスキーファンとしての気持ちよりもストルガツキーファンとしての気持ちのほうがはるかに強い私としてはその失われたフィルムのほうを観てみたかったな、と思う。
この本にはシナリオ「スプーン五杯の霊薬」も収録されている。こちらについては後日。
ストルガツキー みにくい白鳥
2005-07-05-Tue-23:37

この作品についてはこれまでにもくろにゃんこさんのブログなどで私もずいぶん発言しているが、極めて多面的な作品で、見方によっては全く違う印象を受ける事がありそうだ。完全な失敗作と言い切る人もいる。
難しい作品だが、今回数年ぶりに通しで再読してみたので私なりにレヴューしてみようと思う。
ヴィクター・バネフは流行作家である。彼の住む街はここ数年雨が降りつづいている。彼の娘のイルマら子供たちはギムナジウムに閉じこもっていて、「濡れ男」と呼ばれる一見皮膚病患者のような人たちに心酔している。しかし街の人たちは「濡れ男」を嫌っている。
ある日ヴィクターは子供たちからギムナジウムに呼ばれ、自作に対し質問を受けるが、子供たちが神童であることに気付く。
…ところで私はこのレヴューで主人公の名をヴィクターと書いている。邦訳(中沢敦夫訳)ではヴィクトルとされているが、彼はロシア人ではない(この作品の舞台自体旧ソビエトではない。ここはストルガツキー作品の重要ポイント。登場人物がロシア人かそうでないかはとても重要)ので、ロシア風のヴィクトルよりも英語風のヴィクターのほうが適当であると考えた。
この作品ははたしてSFなのか、それとも他の何かなのか?
SFの一種とも、全くSFではないとも読めるし、他の人のレヴューなどを読むと寓話としてとらえている人が多いようだ。他には世代断絶の物語と考える事もできるし、イデオロギー論と捕らえることも可能であろう。
私は今回読んでこの作品はやはり一種のSFであると考えた。
主人公ヴィクターが子供たちを進化した人間と捉え、彼らのことが理解できない事を理解するシーンがそれを物語っている。そこで今回は寓話としての曖昧さを排するスタンスで読んでみる事にした。この作品は同じ作家の「波が風を消す」と同様、人類の中に萌芽した超知性と旧態依然の現人類のジレンマについて描いた作品なのである。
とはいえ、ただそれだけの作品でないこともまた確かで、子供たちは超知性の萌芽に過ぎず、「波が風を消す」の類人類のような酷薄さはまだ持っていない。子供たちは新しい世界を建設するつもりであり、古い人類の幸福などには興味がないと言い切るが、イルマは父のヴィクターのことをそれなりに愛しているのである。
超知性の萌芽たる子供たちを導く立場にいると思われる「濡れ男」たちが謎の存在としてこの物語の中核を担っている。彼らは登場人物の一人ゴーレムの言葉として、ある日「発病」して「患者」になるが、感染はしないということくらいしか説明されない。彼らの目的についても全く説明されない。そして彼らは物語の最終局面で不意に姿を消すのである。ゴーレムはヴィクターに言う。「彼らはいない。存在していなかったと考えていい」これは何を意味するのか? 物語的には役目を終えた彼らは去っていったと考えてもいいのだろうが、ではどこへ?
ズルズマンソルはダイアナの前の夫だったのだから、「濡れ男」が幻覚や超自然現象や異星人ではない(ましてや猫の化身でもない)事は明らかである。とすると、次の場所へ向かったと考えるのが妥当かと。彼らの仕事は終わったわけではないのだ。(どんな仕事かよくわからないが)
ではあのラストシーンは?最後に雨が上がり太陽が照って、街が太陽にあぶられて融けて行き、そこをヴィクターらは幸福と希望を感じながら歩く。歩きながらヴィクターは「これは素晴らしい。しかし帰る事を忘れないようにしよう」と思って幕となる。
街を融かしたことがすなわち新しい世界の創造の第1歩なのである。超知性へ変貌をはじめた子供たちは街から大人たちを追い出し、新世界の創造を開始したのだ。ヴィクターはこれを素晴らしいと思う。そう思う一方で新世界が自分の肌に合わないことも知っているのだ。なんてったって酒の飲めない世界なんてね。おいらもごめんだ。
…と、なんだかかなり即物的なレヴューになってしまったが、とにかく多面的な作品なので何通りでもアプローチの仕方がありそう。同じ作品でイデオロギー論も書けそうだ。
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ストルガツキー トロイカ物語<アンガラ版>
2005-04-23-Sat-21:42

この作品は「月曜日は土曜日に始まる」の続編で、1968年に発表されたのだが、後に1987年になって同じタイトルで別の作品が発表された。前者をアンガラ版、後者をスメナー版と呼ぶ。大筋では同じ筋立てなのだが、違っている部分も多い。
今回はアンガラ版のほうだけについて書いてみる。
アレクサンドル・プリワーロフは研究所の76階にある魔法の町キテジグラードに「ブラック・ボックス」を捜しに出かけるが、ここには「トロイカ」と言われる異常現象を合理化する委員会があった。
アレクサンドルは融通の利かない官僚的な「トロイカ」と対決する羽目になる。
いんちき科学者のエーデルワイス、雪男のフェージャ、おしゃべり南京虫たちサブキャラが「ストーカー」のゾーンに転がってるブツなみに多彩で面白い。
全体にドタバタ調であるが「トロイカ」がソビエトの無気力で官僚主義的なお偉方を揶揄した物であるのは明白である。
もちろんそんなことは何も考えずに読んでもいい。結構そういう読み方をしても笑える作品だが、この内容であればこの作品が(そして作家が)当然受けたであろう弾圧を考えると笑ってもいられないかも。
ラヴル・フェドートヴィッチと言う「トロイカ」の大物はまさしく共産党幹部。滑稽だが、話すら通じず、おまけに強大な権力を持っているとても恐ろしいジジイである。だが(権力を除けば)身近にこんなジジイけっこう居たりして…
それでも笑い話にしたい作者たちの気持ちも分かるのだが、この作品の中に通奏低音のように響くアイロニーが笑い話で終わらなくしてしまう。






